心行寺について

渋澤山 龍泉院 心行寺 縁起

 当山の開創は定かではありませんが、開山相誉上人の没年より文禄・慶長年間にかけての開創と推察されます。新編武蔵風土記稿によれば「荏田村渋澤谷にあり。渋澤山龍泉院と号す。浄土宗江戸芝増上寺の末寺なり。開山相誉。慶長十九年五月六日化す。客殿六間四方西向なり。本尊弥陀の立像、長一尺四寸、大弐の作なりと云う。観音堂、客殿に向いて左の方にあり。二間四方南向なり。観音は立像にて長九寸、定朝の作とあり。年貢地二畝二十歩」とあります。

 当山には徳川将軍家の位牌が安置されています。その昔徳川家ご入国の際、当時の荏田村は二代将軍秀忠公の正室、お江の方(崇源院)のお化粧領地でした。崇源院逝去の際は、名主を始めとした村人三百五十人が落髪し、お棺を担いだと記録にあります。その後荏田村は石川村や川和村などと同じく増上寺に寄進されました。当山はその増上寺の末寺であることから特に歴代将軍家とのご縁が深く、位牌を安置する由来です。

 現在の本堂は昭和五十三年第三十世楽誉卓全代に再建されました。山門・庫裏・客殿は平成五年同住職代の落成です。


江田源三の伝説と心行寺

 寺伝にいわく、当山の開創は江戸時代初期にあらず、それより遡ること四百年、平安時代末期であるといいます。その由来は平安時代末期に活躍した武士、江田源三(一一六一〜一一八五)に関係しています。江田源三は源平盛衰記や義経記に登場する源義経の忠臣です。この荏田地域には荏田城という古城址があり、江田源三はその城主であったといいます。当地には江田源三にまつわる様々な言い伝えが残されており、弓の名手であった源三が城より矢を放った折、矢の先が落ちたところを「矢崎」、矢の羽が落ちたところを「矢羽」といいます。また城址のある地区を「小黒谷」というのは、源三の愛馬「小黒」を繋いだ地であるといいます。

 寺伝によれば当山の前身は源三の戦没した場所に、源三を開基として建立された禅庵であるとします。その後、時代を経て浄土宗に改宗し現在の心行寺として中興されたといいます。

 当山と源三との関係を表すものとして、当山には平安時代に作成された「十一面観音像」が安置されています。この観音像は当山の他の仏像と比較して格段に古く、おそらく源三の念持仏であったものかと推察されます。

 しかしながら、源三は自身を信濃国英田郷の出であると言い残しており、また戦没の地も京都堀川であると伝えられていますので真偽のほどは明らかではありません。


心行寺と六阿弥陀詣で

 江戸時代の終わりごろ(文久元年)のこと、この荏田地域を中心に「六つのお寺」をお参りし「阿弥陀如来」を詣でる「六阿弥陀」という信仰があり、心行寺はその「第5番」寺院でした。

 現在は「六阿弥陀」という信仰自体は廃れてしまいましたが、心行寺山門前には「六阿弥陀 五番」と書かれた石碑が今も残っています。

 六阿弥陀信仰は、もともと江戸の町人の間でそのような信仰がさかんに行われていたようです。六体の阿弥陀如来像を「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」に見立て、春や秋彼岸に六つのお寺に参拝することで、死後の極楽往生を願うという信仰でした。

 それが転じて、町人、とりわけ女性の気分転換にちょうどいいということで、女性が外出する為のいい口実として当時流行していたようです。

 当時の人々は今よりもずっと健脚だったようで、6つのお寺を1日で歩き参るということをしていたようです。

 荏田地域を中心とした六阿弥陀信仰については、市が尾にあります真言宗豊山派東福寺さまに版木が残っていたことにより判明しました。

 左の写真は東福寺さまに伝わる版木の写しです。

 おおよその意味は、もともとこの地域に「観音講」という組織があって、その構成員の人々もだいぶ年老いてきて足がおぼつかない、はるか江戸の六阿弥陀に詣でたいが遠すぎて行くことができない。待てよ、遠くに行かなくても近くにも由緒ある阿弥陀さまがあるじゃないかと、荏田村の小泉さんという人に相談し、内野さんという人が中心になってこの六阿弥陀を作った、とあります。


 荏田地域六阿弥陀は以下の通り(敬称略)


1番 市が尾 真言宗豊山派 東福寺

2番 大場 阿弥陀堂 (現在は廃寺)

3番 川和 臨済宗円覚寺派 瑞雲寺

4番 池辺 浄土宗 宗忠寺

5番 荏田 浄土宗 心行寺

6番 荏田 無量寺 (現在は廃寺)


心行寺の御詠歌


たえす聞渋沢山ののりの聲   

五つのちりを拂う松風 


【意 味】 

渋沢山(=心行寺、当地の地名)より絶えず聞こえるお念仏の声は、私たちの心に積もったちりをきれいにはらってくれる松風のようだ