歴代将軍家位牌について

 お盆も終わり住職としてはようやく一息ついている今日この頃ですが、みなさま暑い夏をいかがおすごしでしょうか。


 さて、今日は心行寺に伝わる歴代将軍家の位牌についてご紹介いたします。


 「心行寺のある荏田という地は、徳川家とご縁のある土地で、そのお位牌をお祀りしている」とお寺の縁起に書いてしまったので、何やらすごいものがあるのかと時おりお位牌についてお問い合わせをいただくことがあります。しかし、心行寺のお位牌は例えば徳川家の菩提寺である三河の大樹寺さまにあるような大きくて立派な由緒のあるものではありません。おそらく歴代の住職が将軍家の御霊を弔う目的で、ひっそりとお祀りしていたものと思います。


 そのようなお位牌ですが、調べてみると歴史的にもちょっと興味深いお位牌だということが分かりましたので、ここに紹介させていただきます。

 心行寺の将軍家位牌は縦17センチ、横18センチの大きさで普段は「葵の御紋」入りの厨子に納められています。製作年代は記載がないので不明です。初代の家康公を中心に歴代の将軍家の「院殿号」をのみ記しています。「院殿号」とは高貴な身分の方に贈られた「諡号」のことで、いわゆる「お戒名」のことです。


 ちょっとこの写真では分かりにくいので、「院殿号」の部分を拡大し、「第〇代」「お名前」を書き入れてみました。

 さて、中央の「安國院殿」というのが初代家康公のことですね。それから向かって「右」「左」と順番に2代、3代と続いています。「生類憐みの令」で有名な第5代綱吉公、「暴れん坊将軍」でおなじみの第8代吉宗公のお名前もありますね。


 ところで、歴代将軍家は第15代までなので、心行寺のお位牌は少しお名前が足りません。ということでお位牌のお名前の最後の方を調べれば、お位牌がいつごろ作られたかが大体分かると思い調べてみました。


 最後の方はお位牌の一番左側、「孝恭院殿」さま、11番目のお名前なので第11代将軍家斉公かなと最初は思いました。しかし家斉公の諡号は「文恭院殿」なので違っている、おかしいなと思い調べていくうちに、歴代将軍家には「幻の第11代」将軍がいらっしゃるということにたどり着きました。

                         「徳川家基像」 徳川記念財団所蔵


 その方のお名前は「徳川家基(いえもと)」公、諡号は「孝恭院殿」さまでした。

 家基公は幼いころから文武に優れ、父である家治公から次期将軍となることを期待されていました。しかし、安永8年(1779年)、鷹狩りの帰りに立ち寄った品川の東海寺で突然体の不調を訴え、3日後に死去しました。享年18歳でした。父・家治は、自らの後継ぎがいなくなったため、食事も喉を通らなくなるほど嘆き悲しんだといいます。家基の死により、父・家治の子は全員死去し、家治の血筋は断絶することとなりました。


 家基公の死には不審な点が多く、当時から「暗殺説」がささやかれていたそうです。家基から政策を批判された老中・田沼意次や、次期将軍に我が息子をと狙う一橋家・徳川治済などがその容疑者とされています。


  家基公は徳川宗家の中で唯一「家」の字をいただきながら、将軍になることがなかった「幻の第11代将軍」といわれています。



 さて、お位牌の話に戻りましょう。

 お位牌の左端、家基公(孝恭院殿)の没年は安永8年(1779年)2月24日で、お位牌の右端父・家治公(俊明院殿)の没年が天明6年(1786年 ​) ​9月8日 です(亡くなった順番だと左右が逆になるはずですが、おそらく御父上を上座(=右)に置いたのでしょうか。ちなみに、俊明院殿の字は「浚」の字が正しいようです)。第11代家斉公の没年が 天保8年 ​(1837年) ​4月2日ですので、心行寺のお位牌は1786年~1837年の間、第11代家斉公の治世のころ作られたものであるということが分かりました。


 ということで、以上で心行寺に伝わる歴代将軍家のお位牌についてのご紹介を終わります。「幻の第11代」将軍のお名前が刻まれたお位牌というのは、めったにないもので貴重なものかもしれませんね。それだけ、当時の荏田村の人々が家基公に対して篤い尊敬の念を抱いていたということでしょうか。いずれにしろ、家基公という幻の将軍がいらっしゃったことは今まで全く知りませんでした。今日は家基公の菩提を弔い、手を合わせたいと思います。

浄土宗 心行寺

横浜市都筑区にある浄土宗のお寺、「心行寺」のホームページです。当山は「紅葉のお寺」として親しまれており、晩秋には境内が赤や黄色に染まります。横浜市営地下鉄「センター南」駅より徒歩7分、豊かな自然と静寂に包まれた四百年の伝統ある古刹です。

0コメント

  • 1000 / 1000